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2018.06.12

【恩師が語る日本代表選手♯第1回 遠藤航(浦和レッズ)】<後編>センターバックへの挑戦と現状を受け入れながらも、くじけないメンタルの強さ

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日本代表選手は、どのような少年時代を過ごしてきたのか。多くの期待を背負って戦う選手たちの成長過程を、恩師の言葉によって振り返っていく。第1回遠藤航選手(浦和レッズ)後編。息子の成長を見守りながら支えてきた父親・遠藤周作さんに話を伺った。

小学生当時所属していた南戸塚SCが一学年あたり10人足らずの小規模なクラブだったこと、また「全員を必ず試合に出す。それが唯一の条件」というクラブ方針のおかげで、遠藤選手には毎試合必ずプレーできる環境が整っていた。さらには人数が足りないので上の学年でプレーするという状況が当たり前で、いわゆる飛び級のような環境の中自分よりも身体の大きな選手たちと日頃からプレーしていたのだ。3年生のころには5年生のチームに入ってプレーしていたが、それでも問題なく活躍できていたという。

ただ、うまいと言っても、あくまでそれはクラブや横浜市戸塚区内での話だ。遠藤選手は横浜F・マリノスのジュニアユースのトライアルを受けることになるのだが、あっさりと一次選考で落選した。もっとも、その時は「受からないだろうけどダメ元で。同じ学年で上には上がいるということを知ることに意味がある」という認識だったそうだ。

それでも、遠藤選手は小学生の頃からプロサッカー選手になりたいという思いを持っていた。中学に進学する際、当初は街クラブでサッカーを続けることを考えていて、実際、2つのクラブから合格通知も受けていた。しかし、最終的には南戸塚SCで指導していた山本篤司コーチが南戸塚中学校のコーチも兼任していて、「今度いい指導者がくる」と勧めてくれたこともあり、南戸塚中学でプレーすることにしたのだ。この時も自分で考え、決めていた。

ちなみに、山本コーチは遠藤選手が小学3年生の時に南戸塚SCのコーチが1人になってしまった時に、周作さんより前に2人目のコーチになった人だった。
また、南戸塚中学には遠藤選手が入学する2年前までサッカー部がなかったが、山本コーチが立ち上げに尽力した。彼もまた、遠藤選手のサッカー人生に大きな影響を与えた恩師の一人である。そして、「いい指導者」として南戸塚中学にやってきた大野武監督との出会いも、遠藤選手にとって重要なターニングポイントとなる。

小学生時代の遠藤選手は、主にフォワードやトップ下でプレーしていた。中学でも攻撃的なポジションを任されていたが、転機が訪れたのは中学2年生の時だった。

先輩達が引退し、自分たちの代がチームをけん引するとなった際、大野監督からセンターバックでのプレーを打診されたのだ。それはチーム事情による部分が大きかった。サッカー部も立ち上がってから数年しか経っておらず、選手層が厚いわけでもない。選手の中には中学生になってからサッカーを始めた生徒もいた。チームのレベルはいわゆる“普通の中学校の部活”といった具合だ。その中で、センターバックでチームをまとめられそうな選手が他に見当たらなかった。
「誰もいなかったから航がやったんです」と周作さんは笑う。「でも、本人は嫌そうじゃなかった。ポジションにあまりこだわりはなかったみたいです。小学校の時も、ほぼすべてのポジションをやっていましたし。中学校でセンターバックをやれと言われても特に違和感はなくて、前向きに捉えていたみたいです」

周作さんは、遠藤選手が中学に進学してから一緒にボールを蹴るということもなくなった。
息子が小学校を卒業しても引き続き南戸塚SCでコーチを続けていたため、遠藤選手のプレーする試合を観戦する機会も限られるなど、息子のサッカーに直接関わる機会は少なくなっていた。ただ、それでも“サポート”は続けていた。「自分で考えさせる」という小学校時代からお馴染みの方法で。
「中学に入ったら、もう私が何かをするということはなかったですけど、その代わりに本を買って、彼にあげていました。たまに試合を見て、ディフェンスとしてこのあたりが課題だなと感じたら本屋に足を運び、課題の解決に役立ちそうな守備の本を買って、それを航に渡して『自分で考えなさい』と。サッカー協会の出している指導者用の教材も渡していました。彼はそれを読んでいましたね。たぶん、本人も『親父が何か伝えたいことがあるんだな』とわかっていたと思います」

周囲のアドバイスに耳を傾けつつ、自分で考え、うまくなるために試行錯誤するという習慣はセンターバックとしての実力を引き上げていった。そして、センターバックへの挑戦がその後のサッカー人生を大きく変えた。

当時、湘南ベルマーレのユースを指導していた曺貴裁監督の目に留まったのだ。別の選手を視察する目的で来ていた試合で、たまたま遠藤選手がプレーしていた。遠藤選手はその後、中学3年生になるかならないかという時期に声をかけられ、湘南ベルマーレユースの練習会に参加することになった。

プロ予備軍との接触は、遠藤選手にとって大きな衝撃だった。それまでに経験したことのないレベル差を痛感させられ、練習会に初めて参加して帰った日、遠藤選手の様子は「けっこうくじけていた」という。

「今持っている、100パーセントの力を出しても通用しなかったと言っていましたね」 ただ、それで終わらなかった。遠藤選手は厳しい現状を受け入れつつ、そこでくじけるのではなく、先を見据えていた。
「本人は『今は無理だけど、どうにもならないレベルじゃない』と言っていました。努力すれば超えられると考えたようでした」と周作さんは言う。
遠藤選手はベルマーレユース時代にトップ選手と初めてトレーニングした際にも大きなショックを受けるが、やはり同じような言葉を口にしていたという。そして実際、遠藤選手はそれを自分の力で事実に変えてみせることになる。

周作さんは息子が湘南ユースに進んだ時も、プロになれるとは思っていなかった。2種登録の選手としてトップのチームで試合に出られるようになって、ようやく可能性を感じたという。少年クラブのコーチを15年も続けた経験から振り返っても、息子より上手な選手は何人もいたからだ。

しかし、今から振り返ると、遠藤選手には他の選手たちとは違った面もあった。それは、メンタルの強さだ。「彼は24時間365日、サッカーのことを考えていました。それが違いだったんじゃないかなと思います」。遠藤選手には3つ下の弟がいて、彼もまたプロサッカー選手を目指したが、その夢は叶わなかった。周作さんの目から見て、中学の頃までは弟のほうが実力的に上だったという。

「宇佐美選手とか、原口選手とか、柴崎選手のように、これは誰が見てもプロになるという選手なら話は別でしょうが、そういった一部の天才を除けば、プロになれるかどうかは完全にメンタルの部分だなと思います」

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